昨年の今頃、自分は自分史上もっとも異常だった。
緩慢と詰んでいる、手の付けようがない仕事。
足の踏み場がない家の床と生き方。
埃をかぶったゲーム機。
迫る誕生日。
暮らしを構成する各面の谷が同時期に重なってしまったこと。
節目だと自分で思っていた年齢になってしまうこと。
久しぶりに友人と会って、積み重ねてきた孤独耐性がごっそり削れてしまったこと。
すべてタイミングの問題だ。
焦りを感じる要素が一時に重なってしまい、状況を整理する前に混乱してしまった。
それが昨年の敗因。
後に医者にも「混乱してるだけですね」って言われたし、この自己分析は間違っていない。
なんでこの時死ねなかったのか。それは親が存命だから。
よく「漫画の続きが読めなくなるから」とかも言うしわかるけど、その理由だと生きてる限り続が気になるものしかないから一生死ぬことと向き合えない。だから自分は死なない理由に趣味が含まれない。
生まれたくて生まれてきたわけではないけど、自分の親は親として素晴らしい人間だから、自分が生きているだけで安心してくれる唯一の人に唾は吐きたくない。
親が死ぬまでは死ねないし、親が死ぬところを見たくないから死にたい。でも死ねない。だから同時に死ねたら一番いい。地球が他の惑星とぶつかってくれたらいい。
まあ、そうやって絶対的抑止力だと思っていた親の存在もアルコールの前には無力だったけど。
誕生日とかいう老いのリマインダー。
人体が最も調子のいい歳に、人生が最も豊かでいられる歳に、自分は何も持ち合わせていない。
それがどうしようもなく惨めで無価値だと思った。
親と親友から来た「誕生日おめでとう」のLINEの通知が何よりも苦痛だった。
うちの親は毎年、小さかった頃の自分の写真をLINEやメッセージカードで贈ってくれる。それまでは素直にうれしかったけど、この時はとにかく耐え難かった。
今日という日を生きて迎えたこと、それのどこにめでたい要素があるのか。
あなたがたが祝福を送った相手は、真っ暗な部屋で膝を抱え足に短い爪を食い込ませて「生きるのをやめたい」と呟きながら号泣している。
生きていたくない人間に対して生きていることを祝うのは十分に嫌がらせだった。
じゃあ死ねよって話なんだけど。死にたいと生きたくないは積極性に差がある。意味が違う。
吐きながら「ありがとう!」と返信した。
って自分で思ったことを親に知られたとき、親がどう思うかを想像してまた泣く。
不出来な子供ですまねえな。
そして自分はやっぱり親にはなれないな。
自分は自己肯定感が高い人間だと思って生きてきた。
義務教育時代、自分の考えは基本的に正しく、それをすべて表に出すことは当然の行為だった。
高等教育時代、それまでの傍若無人さを反省して、協調性の向上に努めた。
社会人になって、出る杭になることが明確に己の損になった。そもそも発言の場などなくなった。
自分は変わらなかったし変えられなかった。諦めた。
どんなにだらしないことをしても、見て見ぬふりでやりすごせる自分の自己肯定感が低いわけがない。
そう思っていたけど、そもそも自己肯定感という言葉を理解していなかったかもしれない。
義務教育時代の自分は、自分という人間の本質が言動に100%出ている。
そして高校以降、義務教育時代のふるまいを全て過ちだと定義して、同じ轍を踏まないことだけに注力してきた。
そうやって自分の本質を完全に否定した時点で、自己肯定感を語る権利がないんじゃないかと、つい最近気付いた。
自分の反射的な部分は変えようがないと割り切ることで、己と向き合ったつもりのまま、自分の思考は誤っているという大前提を構成する。
転職を考えても、死ぬことを考えても、思考のほとんどは自分の出した選択肢の否定。
それで否定しきれなかった生き残りを行動に移す。普段の外出や買い物とかもそう。
頑固な持論があるときもある。それを表に出すべきか否かの検討にそれなりの時間がかかる。
だから明確なルールや基準がないものがすこぶる苦手。自分で結論を出せないから。外に着ていく服とか、社会的振る舞いとか。
あくまで判断基準は「自分がどうしたいか」ではなく「世間的に無難かどうか」だ。自分は誤っているから。
他人の目がなければ自分は存在しない。存在することを考えなくていい一人暮らしの自宅だけが自分の居場所だ。
そして、どのみち存在していないなら、いつ死んだって同じなのだ。親さえいなければ。
とかいいながら、本質的にかまってちゃんでわがままで目立ちたがり屋で負けず嫌いで欲深く頑固で誰かの中に存在していたい承認欲求の権化のような自分大好き人間だから、どうにかわがままをねじ込めないかと思案して本音を匂わせたがる。
その最たるものがこのブログだ。
能ある鷹に憧れて隠せない爪を噛み続けている。
今までハマってきた実況者たちもそうだけど、今、生活の大半を占めている香木コンビなんかは能ある鷹の絶対的なヌシみたいなもんだ。
理想なんてもんじゃない。現実に命をもって暮らしていて、事実としてそういう存在であること。これ以上に圧倒的なことはない。人間として最も面白い存在。
もちろん、本人たちが実際どうなのかは知りようがない。自分にはそう見えているというだけの話。
自分自身を確固たる生き様として持っていて、それを完全に受容してどんな場所であっても堂々と展開している。
そのうえ、場や人を分析・理解して出力レベルを調節することもできる。しかもなるべく自分を損なわない形で。
極めつけは、出力している「自分自身」がこの上なく無害であること。
ところかまわず自分のやりたいことを貫けるメンタルは超自己中心的なスーパーナルシストとも言える。それが嫌味にならない要因は、香木コンビ特有のいろんな要素があるなかで、一番は無害な事だと考える。
慈愛とか善良とか言い換えてもよかったけどニュアンスが違う。要素としては確かにギバーなんだけど、限りなく仏なんだけど、ここまで完全に善良な人間がいてたまるかという自分の受け入れ難さもありつつ、「他人の時間を自己都合で奪う」とかの迷惑がなくはないというのも含めて、主観的な言葉選びとしての”無害”。
この無害さが、本当に、心の底からうらやましい。
自分の本質を否定すること自体は正しい。その判断は高校に進学したときも今も変わらない。
自分の価値観で見ても、自分はろくでもない。
マウントを取り、陰口をたたき、悪口を浴びせ、弱者を視界から消し、物事を自分の都合のいいように解釈し、思い込みで他人を振り回し、自分に甘く、保身の為なら人を傷つける嘘も厭わない。テンプレのような害だ。
だから自分は目立ってはいけないし、言動は発する前によくよく検討する必要がある。自分らしく生きることで加害者になる。
ではどう考えを改めるべきなのかというと、「己と向き合ったつもりのまま、自分の思考は誤っているという大前提を構成する」の部分。己と向き合って、誤っている箇所を整理しなければいけない。
自分は自分を受容していない。自分を受容できないまま生きるのは苦しい。改善提案も転職も、自分を主体にすることが苦痛すぎて考えただけで胃がもげる。
現状維持を優先しても、理想と現実の狭間でもみくちゃになることに慣れて、自己肯定感の底を掘り下げ続ける。
向上し続けなければ生きることを許されない。自分のことを誉めたり好いたりする人間は自分のことをなにも分かっていない。
自分という反面教師像を見て自分で作ったそんな型に、なんとか肥満体を収めようと奮闘している様は目も当てられない。
それでもそうし続けるしかない。自分を受容できないまま型にはまるのをやめることは死を意味する。
当然、反発しているだけでは何も解決しない。
解決の意思はある。もっと気楽に人と喋ったりしたい。もっと気楽に生きたい。
そのためにはコストを支払わないといけない。でも支払先がわからない。
失敗経験があまりにも少ない。ただでさえカスみたいな存在が今から失敗を重ねたらいよいよ取り返しがつかないんじゃないか。
やってみるしかない。リスクを取れる人間にしかリターンはない。
リターンを得た自分は調子に乗る。調子に乗って、盲目になる。他人を傷つける。いつもそこまでがテンプレだ。
どうしたらいいかわからない。どうなりたいのか掴めない。できることをやるしかないだけなのに。思ってる暇があったらできるのに。やらない。お前はそういうやつだ。
そうやって悩んでいるつもりでただ時間を無駄にしている。無益。
香木コンビとヤク1000のおかげですっかり元気になり、部屋も掃除できた。自炊も再開した。生活が向上した。
ただ、昨年と同じ濃さの希死念慮がより鮮明な輪郭でずっとここにある。
昨年から状況は何一つ変わっていない。何も解決していない。もう時間もない。
麻酔に浸って面倒事すべてを見なかったことにしている。
誕生日が近づいている。
願わくば、この麻酔が切れたとき、最高の走馬灯を見たい。