はつもの

いきてるよ~

耐性の話

前の記事で「長くなるから」とかいっていっちょ前に記事分けしたこのエロ耐性の話。

単純に自分語りしておきたいだけ。

なお、耐性というのは「友人と下ネタを共有する」という状況についての話。

自分一人で見聞きしたり、友人たちが話している下ネタを聞くだけ、とかはなんの問題もない。

自分もその会話に参加する必要がある場合にとても困る、という話。

 

思い当たる理由は明確に3つある。

① 生まれ持ったエロの器が小さい

② 人と共有して恥ずかしい思いをしたことがトラウマになっている

③ フィクションよりリアルが先だった

 

なんでか知らんけど人に聞かせてえという欲が湧いてしまったので、それぞれ詳細を書き残しておく。

 

器が小さい

エロい!と思ったときにその感情を平然と処理する能力、というかなんというか。

自分がエロをエロだと認識して初めてそういうコンテンツに触れたのは中学校が初めてだったし、その後もいわゆる薄い本やエロゲなどに関わったこともほとんどない。人より経験値自体が少ないというか、そっち方面への貪欲さが全然なかったというか。

 

そもそもエロでなくても、ひとつ気に入るとそればかりを擦って新天地を探求したり解像度を深めようとはしないので、興味の器自体が小さいのだと思う。

ゆえにあらゆるジャンルに対してボキャ貧。

 

感受性としての器も小さい。ド童貞というか。

ちょっとしたパンツだったり生足だったり谷間だったりが露出してるだけでエッチ!!ってなって気まずい。いまだに。童貞以下。

男性向けのような過剰表現になってくるとグロく感じることのほうが多い。




トラウマ

器の小ささゆえに起きた事故だったようにも思う。

これは中学生の頃、友人2人と放課後に家でインターネットを触りながらお話していたときのこと。どういう流れだったかは忘れたが、自分が知っているとびきりのエロ画像を見せ合おう、ということになった。

当時は健全な某デジタルなモンスターオタクのワイ、「某女神型のおっぱいがえっち」くらいしか友人に話せそうなものは思いつかなかった。

でも根拠のない自信で満ち溢れていた当時の自分は、ひとつだけ今この場にふさわしい武器を思いついた。

個人サイトで見つけた、アニメ3作目のクールなヒロインが恥ずかし気にズボンを脱ぎかけているイラスト。

当時の自分はこのキャラクターが一番好きで、毎日悶々とこのイラストを眺めていた。自分の中ではこの世で一番エロいコンテンツだった。

 

これをとりあえず出しておけば友人たちも舌を巻くだろう、と負けず嫌い全盛期の自分はインターネットで検索して見せた。

当たり前なのだがめちゃくちゃ笑われた。「この程度でwww」「かわいい~~~www」と言われたのは今も音声つきで思い出せる。これも当然だが自分は消えたいくらい恥ずかしくて傷ついた。

そのあとで友人が検索してみせた画像の数々はどう見ても年齢的にアクセスできたらまずいものばかりで、ブラウザのバナーくらいでしかそんなの見たことなかった自分はますます消えたくなった。まだ自分は土俵に上がってはいけなかったのだ。

 

それ以来、そういう話をする機会にはほとんど出会っていない。

オタクの群れにいたわりにはすごいことだと思う。

しかし、ゆえに傷を癒し慣れることもできなかった。

 

人の会話を聞くだけならいくらでも聞ける。むしろそういう話は好きだ。

でも会話となると自分のボキャブラリー、経験値を少なからず晒さなければならない。

それがエロともなると、自分のコアな癖や人に知られるのが恥ずかしいと感じるもの、理屈とかではなく本能で本当に好きなもの、とかになる。

それを晒して「この程度」とか言われるのはマジで怖い。

 

今の友人たちは決してそんなこと口にしないだろうけど、

何度かそういう話題になって自分が喋った後のあのなんともいえない空気、

絶対「この程度で口を開けるなんてお里が知れるわね」的なことを思われているとしか思えない。

オタクに擬態しようと思ったときに絶望を覚えるハードルの一つは確実にエロだなと思った。



リアルのほうが先

記憶にある限り最も早くエロに接したのは小学校中学年のとき。

このころは「エロ」という概念も理解しておらず、もしかしたらそういう単語を聞いたことすらなかったかもしれない。

しかし感覚として、「イケナイコト」みたいな、子供ながらにムズムズする何か、というものは漫画などで覚えつつあった。

 

クラスにとてもませた子がいた。

ごっこ遊びなどで頻繁に一緒にいたグループのひとりで、ある日その子に「イイコトしない?」的なことを言われ、グループのみんなでノコノコと空き部屋までついていった。

放課後のクラブ活動でしか使われない更衣室のような場所が体育館のギャラリーにあって、そこは施錠されていなかった。

昼休みにそこに入った我々は、その子に指示されるがまま、一人ずつカーテンの束にくるまった。カーテンにはその子も入ってきた。

その子はエロ漫画に書いてそうなセリフを時折発しながら、カーテンの中に入っている人の乳首や股を指や口で直接触る。セックスの前戯とやってること自体は何一つ変わらない。これを一人につき数分、順番に繰り返していく。

カーテンの外にいる人は、それがなんとなくイケナイことだ!という雰囲気で盛り上がる。筋肉自慢大会の如くキャイキャイとカーテンに向かって声をかけていた。

 

当時はまだ性感というのが全く発達していなかったからか、雰囲気以外に楽しめるポイントは無かった。ごっこ遊びの延長だった。

肌を触ってるなあ、つばがついているなあ、という感覚しかない。

その子は楽しそうだったし、それを数か月間、人を変え場所を変え続けていたと思う。観衆なし、一人だけ呼ばれてそれをすることもあった。

 

文字に起こして思う、えぐい。

 

その子が満足したのか自然と呼ばれることがなくなり、自分はその後転校した。

この遊びの意味を理解したのはそれから十数年後のこと。

そんな遊びをしていたこと自体を忘れてのうのうと生きていた自分は、

学校で同性を好きになり、必死でその状態の解釈を試みていた。

自分はずっとノンケだったはずだ。えっちだってしたことない。

そう逡巡していたときにふと思い出した。

してるやん、同性とえっち。

うせやろ、と。

なんとかして原因をでっちあげたかった自分にとって、願ったりかなったりというよりは因果応報としての衝撃があった。

 

そのタイミングまでは比較的オタク的なエロ会話ができていた、と思う。

完全なファンタジーとして割り切ることができていて、なんというか感情移入のような感覚を覚えることはなかった。

思い出して以降は、というよりセックスを覚えてから以降、と言った方が正しいのかもしれないが、エロ会話に身を切るような感覚を抱くようになった。

なんというか、「自分って最初からエロかったんじゃん!最低!」みたいな。

そのとき浮かぶイメージは恋人とのセックスではなく小学校のときのあの光景。

理由はわからないが、あの頃の自分を面前にさらしているような感覚になっていたたまれない。この話を誰かに話したことはない。

多分だけど、「何も知らない自分が知っている人の前で雰囲気をわかっているかのように振舞う」という状態が会話中の自分の振る舞いとリンクするせいだろうか、とか思う。

単に感受性がバグっているだけかもしれない。会話ででてきたエロの状態や感覚を自分や会話相手で想像してしまうのが普通によくないだけ。

恋人や裸の付き合いをしたことがある友人相手だとこのいたたまれなさが出ないのも関連がありそうだな、という認識。

それっぽく歴史をこじつけようとして失敗しているのがこの章。乱文にもほどがある。




喫緊の問題

ただ単にそれだけなら別に今まで通り放置でよかった。

今さらこの問題に対して真剣に考えることになったのは、エロ話耐性をつける必要があるからだ。

オタクたち、思ったよりもエロコンテンツをこの界隈でやりたがっている可能性がある。

その輪に自分も入っているので、なんとかそのエロコンテンツに沿った回答を出さなければいけない場面がある。

 

つっても直接的に行為を描写しろって言われてるわけじゃない。

ほんのちょっとエッセンス的にそういう場面があってコメントを求められるだけ。

だから自分のこの反応がクソ童貞すぎて本当に嫌気。かわいこぶってんじゃねえぞマジで。

 

解決策、みんなと温泉に行く、くらいしか思いつかない。

自分に一番効果的な治療ってそれなんだよな。

下手にエロ漫画だエロゲだを履修したところで人と共有しなかったらいつも通りだ。

この強者の友人たちだからこそハードルを感じているというのもあると思う。

友人たちは普通にR18をRTするしそういう描写や冗談を口にすることになんも抵抗もにじませない。

いっそガッチガチにそういうことする奴でも当ててもらったほうが吹っ切れる可能性もある。想像しただけで心理的抵抗えぐいけど。

 

多分、根幹はプライドなんだよな。

そういう話をすることを下品だと思う自分がいて、

ただでさえクソ野郎の自分に下品属性までつくことが許せない。

または、どんなに内容を考えたとしても自分の口から出る下ネタはいやおうなしにクソ下品で笑えなくなる、と自分が感じる。これはある。

そうなると自己肯定感向上が対策になっちゃう。エロの為に掲げる目標じゃない。

 

どうしたもんかな。困った。

こう見えて本当に困ってる。




オタクになれないワイ

パンピももはや死語なのだろうか。

鍵垢に閉じこもり一人で消費行動を繰り返している自分には知る由がない。

この手の感覚はググってもあんまりしっくり来ないことが多い。

 

どっちつかずで浅い中途半端な自分は、どちらかに属している人から等しく嫌われやすい存在であることを自覚している。

それはそれで構わないのだが、この疎外感は一生消えるものではないなと思い直す出来事があったので、この機会に明文化しておこうと思った。

 

なお、この文章における「パンピ」とは一般ピーポーの略、オタクではねえだろうなと自分が思う人のこと(説明が難しいが、歳食ってから読み返しても自分には伝わるだろう)。

「オタク」とはインターネットやコンテンツに精通し、愛し、自然と創作活動に至るような、「”好き”のためならなんでもできる」ような人のことを指す。

世間一般的なオタクではなく、自分の見える範囲で”好き”に頭焼かれたひとたちのことをオタクと書いているので誤解なきようお願いしたい。



確実にパンピではない

パンピとオタクの狭間にいる人のことを、仮にグレーと呼ぶ。

パンピかオタクか、のグレースケールでいうなら、オタク寄りのグレーであることは間違いない。

パンピの思考回路が理解できないこと、自分の周囲にはオタクが多いこと、の2点がその理由だ。

 

極端かもしらんが、最近の実例がある。

美容師にライブの話を聞かれ「あの大御所芸人がテレビと違って尖ったことやってて面白かった」と答えたら「やば!分析してますね~」と返されたこと。

会社で配られたお菓子食べて「これクリームとクッキーの相性超いいっすね、うま」って言ったら「食レポしてるw」と茶化されたこと。

 

自分はそういう返しをしてくる人にパンピのラベルを貼るし、できることなら業務連絡以外何もしゃべりたくない。彼らは、分かり合えないということを分かり合えない人種だ(と私が思っている)からだ。

オタクに同じことを言ったとしても、「ええやん」「わかる」「せやろか」と同じレベルで話をしてくれる。

これ自分の環境が特殊だったりするんか?世間のオタクもそうじゃないんか?

 

しかしオタクでもない

理由を列挙してみようと思ったが、どうやら明確な理論でそう考えているわけではなく、経験と体感でそう思っているだけらしい。

ただ、明確に自分はオタクではないのだ。

少なくとも、自分の今の環境においては、はっきりと非オタクである。

友人にも「あなたはオタクではない」と言われたばかりだ。

別の友人はオタクだよ、と言ってくれるが、自分がそれを100%で受け取ることができない。

 

明確にこれだけは違ぇな、といえることが2点ある。

ひとつは「コンテンツの着眼点と愛し方」、

ひとつは「エロを共有することに対する耐性」だ。

 

着眼点と愛し方

これはオタクとパンピを対比させるにはちょっとずれた話かもしれない。

そもそも好きなジャンルが友人たちと全然かぶっていないから土俵自体が成立していないともいえる。

 

自分はその作品をトータルで好きになり、ストーリーや展開、セリフの妙などに惹かれ、結果として特定のキャラクターを贔屓するようになることが多い。二次創作はあまり好んで見ようとは思わないし、自分で二次創作をすることもなくなった。

友人のオタクたちは、ストーリーやその作品を好きになることは語るに及ばず(好きであるという前提、語ろうと思えばいくらでも語る用意はある)、推しにどっぷり着眼して二次創作をひたすら漁り、そのキャラの背景や関係性を深掘りしていくのを好む(という印象)。さらに言えば、俗にいう性癖、自分がどういう属性に強い魅力を感じるのかを明確に把握している。

 

どういうオタクをやってきたか、の違いであると言ってくれるならそうなのかもしれない。自分は「この話おもしれー、このシーン好き」みたいな体験や感情を擦りたくて何度も全体を周回する事が多い。他の人がどうかは知らない。

 

愛し方は明確に違う。自分は「消費を重ねるだけ」、オタク(友人たち)は「二次創作をする」だ。穀潰しと生産者の隔たりはオタク界における人権問題、絵も解釈も生み出さない者に物言う権利はない、そういう認識。自分は貝のように錘ります。

一番創作側のオタクをやっている友人が「創作は消費ありき、自信を持て」みたいなことを言ってくれたけど、柵の向こうの意見だなと感じた。



エロ共有耐性

これだけは本当にどうしようもない壁だと思う。

 

そもそも自分はこれまでの人生、他人とエロい話をしたことが数えられるほどしかない。それが完全なフィクションの話であっても自分の性欲を丸出しにしているようで、恥ずかしさと自分の気持ち悪さと無知晒しに堪えられない。

歳を重ねるごとにより潔癖さに拍車がかかっている気がする。

自分はエロい自分をなによりも認められていない。向き合っていない。

これは明確な理由があると推測できるけど長くなるので別記事にまとめる。

 

ウブ装いてえわけでもねえのに一人だけモジモジしてんの、

本当に恥さらしなのでやめたい。

でもできない。つらい。



オタクになりたいわけでもない

これが一番この話をややこしくしている。

自分はオタクになりたくない。

何故か。オタクをやっている自分が気持ち悪くて許せないから。

 

この自分を許せないという感覚と、

Twitterで見かけるようないわゆる限界オタクと呼ばれる人のような振る舞いに対する強いアレルギーには原初体験がある。

自分のオタク遍歴をさかのぼればすぐにわかるので以下記載する。

 

そもそもオタク気質の人間ではあった。

小学校に上がってからあるアニメにドハマりし、データ集を自作したりしていた。

父親がゲーム好きだったのもあって、セガサターンでシューティングやアクション、パズルゲーをずっと遊んでいた。GBASPを買ってもらってからは同じソフトを何周も遊んだ。母もアニメや漫画を好んで見ていた。

友人たちとの主な遊びは川や山、公園で走り回ることだったけど、時折アニメのごっこ遊びなんかもしていた。

 

進学して、初めて「オタク」という概念と遭遇した。

インターネットという存在に触れ、ボカロを覚えた。

BLというものがあるらしいと知ってDSのブラウザでそういう小説を読んでみた時は刺激が強すぎて腰が抜けた。

隣の席の女子(2ch見てるタイプのヲタク)がお絵かきをしていたので見せてもらったら稲5の腐絵で怖かった。

 

オタクコミュニティに属したのは高校から。

入学直後、授業で隣の席だった女子(同人誌頒布するタイプのヲタク)と話したのがすべての始まり。

あれよあれよという間にTwitterを教わり、ゲームを布教され、一緒に遊ぶようになっていた。

インターネットにしっかり触れ始めたのはこのタイミングだったので、最初はTwitterの使い方もわからず、ボカロのなりきり垢を本物と思い込んで執拗に話しかけて遊んでいた。

 

それからゲ実にハマった。Twitterではしゃぐようになった。

学生オタクの痛々しさの権化のような振る舞いを2年以上続けていた。

それはそれで付き合ってくれるフォロワーが当時は多数いたし、自分は楽しかった。

調子に乗りすぎてフォロワーから苦言を呈されたり喧嘩したり、2chにさらされたこともあったが、自分の行動は間違っていないという謎の自信が非常に強く、反省というものを全くしなかった。

 

アレルギーが出たのは本当に突然のことだった。

裏垢を眺めていてふと気づいた。

視界が一歩引いたかのような感覚だった。

自分が今の今まで属していたその集団、

自分、

むちゃくちゃキモくない?

 

いや、キモい。

これが、私こそが「信者」ってやつではないのか?と。

目が覚めた、とはこの感覚を言うんだと思った。

原初体験とはこのことを指す。

 

後から考えれば、当時主流だった嫌儲・冷笑・性差別文化に突然カチリと迎合してしまっただけで別に目覚めたわけではなかったし、これがなければ自省も覚えず最悪な事態になっていたと思うのでこれでよかったのだけど、強い体験として神経の隅々までこの感覚が染み渡っていった。

性格の悪さに拍車がかかっていった。

 

進学してから一年ほどは勉強と睡眠しかできなくなり、Twitterの浮上頻度はがくんと落ちていたんじゃないかと思う。

ただ、美術の友人も一緒に進学していたし、さらに彼女のご友人もこれまたゴリゴリの創作ヲタクだったため、むしろオタク濃度は上がっていたように思う。

卒業までの間に彼女とは疎遠になり、自分はゲームとゲ実に回帰し、今のスタイルに落ち着くこととなる。

Twitterは垢消しし、鍵垢に籠った。

 

これは当然の流れではあるものの、鍵垢に引きこもってからインターネット耐性が目減りしていった。

友人たちと会う頻度も当然落ち、オタクとの接点がTwitterしかなくなった。

結果、慣れというアーマーが年々薄くなり、気付けば冷笑と差別しか残らず、

かつての痛々しい自分を現在見かける女オタクたちに投影し嫌悪感を抱き続けている。

以上。

 

アホみたいな経歴だ。

自分がオタクになったらどうなるか知ってるし嫌悪感がぬぐえないからオタクになりたくないけど、友人たちがオタクだから仲間に入れてもらいたくて再びアーマーを着たい。

しかし社会人になってから精神が日和ってデブった自分が即席で身に着けられるオタクアーマーはどこにもありませんでした、という話。

文字に起こしたら浅すぎて笑ってしまった。

まだ自分と遊んでくれる友人たち、懐が深すぎる。

 

このブログで脱臭を試みているのも上記が原因。

意識したくらいで文章の書き方は変えられないのに無駄なあがきをしている。

後から読み返したときにキモって思うのが怖い。思われるのが怖い。



疎外感

他人と同化することを仲良くすることだと思っている節が無ければ、こんなことで疎外感を抱くことはないんじゃないかと思う。

でも努力では埋まらない溝だ。相手もズレや違和感を修正しながら自分と付き合っていくのはしんどいだろう。そういう推測をやめろって話か?

 

自然体でいればいい、とかいう贅沢すぎる目標は身を滅ぼす。

少なくとも、自分の自然体は身近な人にって害でしかない。ちょっと疲れたりちょっと混乱するだけで、その本性はすぐに顔を出す。油断ならない。

自罰的でないと人前に出ることすらできないのは、こんな自分に時間を割かせる罪悪感に耐えられないから。

友人におごりたがるのもそうかもしれない。慰謝料を受け取ってもらわないと自分の気が済まない。いたたまれない。

オタクと遊んだり知らない話聞いたりするの、

自分は楽しいけど、みんなが楽しいかは一生知りえない。

オタクはオタクじゃない人間に付き合うのつらいでしょ。

そのために死ぬ覚悟はありますので、

人数合わせの必要がなくなったらいつでもお申し付けください。



日記 爪が初期化されたこと、嘘がつらいこと

そのいち、爪の状態がここに記録をつける前の状態に完全に戻った

右手は昨年12月上旬にメンタルおかしくなってから、左手は先月から

 

一度噛まなくなったからといって噛み癖が治るわけではない

ストレスを取り除いて一人でいる時間を減らしてやっと爪を伸ばす環境ができる

ちょっとでもストレスかかってネイルオイルが埃被り出したら何もしていないのと同じ

そしてこの爪である

 

一番良かった時の半分くらいになった

せっかく定着したネイルベッドも全部おじゃんになった

伸ばそうと思えば伸ばせることがわかってしまってより意識が低くなった

毎日毎日深爪の不快感に余計ストレスが溜まって伸びたそばから噛んでる

自暴自棄

しばらくは爪に犠牲になってもらうしかない

爪は最後だ

もう最初に直す場所じゃない

 

 

そのに、ドラマ化が決まったらしい食にまつわる某百合漫画の最新刊を読んだ

 

元々読んでて、事例紹介用のPR漫画だなあという印象だった

面白いしかわいいけど意識の先頭に面白さが来るわけではない

 

で、最新刊の最後の方の一人飲み会の描写でなんか泣いた

 

文章を誤魔化した程度で性別隠せる側の人間じゃないことは自覚してたけどあえて意識的に隠してる気分を味わい時もあるよねっていうアレであえて性別を明記してはいないけど自分も彼女のことを彼女と言えなくて彼氏って言われたことを思い出してしまって

自分もこういう気分になったことがあるなって一番当事者みが強かったシーンで

なんで隠さなきゃいけないんだろうって思って泣いた

 

彼女がいた当時は彼女のほうが先駆者だし隠したいっていう意向だったから泥酔してもそれだけは言わなかった

態度や言動で周囲にはモロバレだっただろうけど

堂々と言っちゃダメなんか?って思ってた

 

別れて何年も経って交流もなくなった今も隠してるのはなんでかというと

特定の相手がいない状態のカミングアウトはリスキーだと思っているから

なぜリスキーなのかというと友人を信用していないからだと気づいて

いや、自分がいまその友人を性的対象と認識してしまったせいで

下手に進展する可能性を跡形もなく消し潰したくて

吐く必要のない嘘をミルフィーユの様にかさねて

もう挽回の余地はなくなってしまった

 

もうサークルクラッシュはしたくない

関係性を変化させたくない

でも感情の奴隷たる自分が自分の気持ちを捻じ曲げることは非常に難易度が高くて

現にこんなにも苦しい

これは事情を知っている友人にも理解はしてもらえない領域の話

この感情は共有できるものではない

 

せめて恋愛感情じゃなくてよかった

汚いことだと心置きなく叩けるから

 

別に隠すことはないというか

隠したくない、これがわたくしでござい、がしたい

なのに親に一言ポロっと言うのですらあんなにも勇気が要った

彼女がいるときなら彼女好き好きを表に出すだけで済む

なのに一人のときに「これがあたくしでござる」を表に出すのはあんなにも怖い

 

別に言ってもよかったんだ

去年の通話の時

相手がノーマルだとわかればあきらめがつくだろうなどという浅はかな考えで夜更かしを強要し引き出した答えを鵜呑みにできず

その場の空気を壊せなくて同調した

愚かが過ぎる

わたしはたぶん相手の性別関係ないかもなんだけど、って言ってしまえばよかった

なにを忌避したのかも自分でわかってない

心のわりと浅い部分で相手とどうこうなることを期待しているから

その期待を刺し殺すためだけについた嘘

友人を不快にしたくないなんて配慮じゃない

同僚には酒の勢いであんな簡単に明かしたのに

この友人には目の前にそういう人間がいるぞって言ってやりたいのに

言えなくて

性別を伏せたまま彼女のエピソードトークをして

話の締めに「聞けたなあ、彼氏遍歴」って言われたのをやっぱり覚えている

「彼氏ね」「ね、彼氏」とお互いに繰り返したアレが意味深だったからバレてるうえで嘘に話合わせてもらってる可能性も全然ある

でも本当に隠す必要なかったんじゃないか

自分を信じられないからそういうことになる

事情知ってる友人が一番スキンシップ多いんだから問題ないだろうに

意識してるのは私だけなんだから何の問題もないだろうに

なんで言えなかった

今更「嘘でした~(^_-)-☆」なんて言ったところでなんで明かしたの?なんで隠したの?ってなるだけで

いらない嘘に一番苦しめられてる

バカだ

別にアウティングなんか警戒しようもない

差別偏見はちょっとありそうだなって思うし身近にいるってわかったらそういう話しづらくなると思うと隠してたほうが都合がいいかなとは思うけど

同性しかいない界隈でノンケじゃない奴が混じってるって誰にもバレてない状況ならまだしも半数が知ってる状況で隠す意味ってマジでないんじゃねえか

とか

そういう理屈つけてただ自分語りしたいだけじゃねえの

とか

 

嘘なんかつかなくていいならつかんほうがいいにきまっとる

もう呼吸と同じ感覚で無意味な嘘を吐くのが当たり前になってしまった

虚言癖ほどではない小さな嘘を山ほどついている

 

自我を出してしゃべる相手じゃなかったから

いきなりそんなこと言われても困っただろうし

今と半年前じゃ状況も違う

 

11月の童貞さを反省して

12月の通話で身の程を思い知って、というか自分のだらしなさを指摘されたような気分に勝手になってクソほどメンタルめちゃくちゃになって

先月は全然大丈夫になった、わけではない

やっぱり下心が抑えきれない、本当に良くない

チャンスさえあれば近づいてしまう、触れてしまう

他の人もスキンシップ多いから目立ってないだけで私視点はほぼセクハラだ

でも先月は向こうから触ってくることも多くて

指を横から格子状に組むやつをされてたときの感覚が完全に恋人つなぎで

目線は一度も友人のほうにむけられなくて

他の友人の顔見て相槌打ってるのに意識は絡んだ指にしか行かなくて

無性にやっぱり照れてしまって

つらくて

ようわからんチョキの股ぶつけあうだけの数分間とかも目的もオチもわからすぎてずっとしどろもどろで

なんで今回はこんなに積極的なのかわからなくて

浅い覚悟がべらぼうにぐらついて

そのちょくごの目見て「なんなん!?」がグサリときて

いやなんなん!?っていうしかないくだりの一部分でしかないんだけどそれ言われて一瞬時止まって状況わかんなくなって

やっぱり言えねえやって改めて思った

 

はずなのに

やっぱり知ってほしいんだな

自分のしたこととかじゃなくて自分のありかたを偽るのは

その先一生嘘を吐き続けるために喋ったことを覚えておく必要があって

演じ続ける必要があって

思っていることと違うことを自分として皮を着るストレスから解放される日は来ない

相手のためじゃなくて自分のための嘘なのに

それでもしんどい

クソ甘えた生ぬるい人間だから

楽しかしたくない人間だから

許されたいしなんかうまいことなってほしい

そのためにできること

やっぱり嘘しかない

それが一番楽なんだ結局

なにも変わらないでいてくれ

これ以上しんどくならないでくれ

一人で泣くだけで済むんならそれでいいんだ

巻き込みたくない

巻き込みたくない

 

自分が自分のことをそういう少数者の当事者だとまだ思ってないんだなって

こんな勘違いみたいな事例でも事例そのものは当事者のそれだってことくらいは認めないと何一つ前に進めないのに

 

自分自身に差別的な意識がやまほど根付いてる自覚はある

それが認めたくない感情につながってる部分もある

でもそんな理由で自分を否定するのは一番つらい

自分の性別を自分でヨシとしていないのに指向まで過渡期にされたら処理できないから

そういうこともある、くらいで名前のない箱にずっと入れっぱなしにしている

だからこういうときに右往左往する

性的違和があるわけじゃない、三十路ニー的な感覚が根本にある自覚があるということ

だからその矛先が友人たちに向いてしまったら絶対に取り返しがつかないから怖くて

自分を律せる人間になれたら

自分に納得できる人間になれたら

たらたら言ってますけれども一歩も前に出ませんね

いい加減人生からはけたらええんとちゃいますの

 

いっそ彼女をさがしてみるかとも思ったけど

こんなのの相手をそんな理由でしなきゃいけない赤の他人にあまりにも失礼だし

かといって友人を好きなままでもいられない

性欲先行だけどこんなにもカワイイとかいうレア感情が頻出してる時点でそこ否定すんの理屈として苦しい

他人から指摘されてなかったら今も誤魔化せていただろうか

元カノのことすら8年経って未だに飲み込めてないんだ

リアタイの感情にリアタイでケリつけられるわけがない

 

 

今日ほどこの場所を作っておいてよかったと思った日はない

言いたいことをため込みすぎて爆発するところだった

ここ作ったのが何年前かも覚えてないけどそれだけは自分を褒めてやってもいい

もはや目的も何もない

ツイッター以外に頭書き留めておくだけの場所

十分

戒め

悪口に時間を使うな

話したいことは話しかける前にまとめろ

やめる時間は最初に決めておけ

深夜1時は遅すぎる

否定をするな

説明のために引っ張り出すエピソードトークは概要だけつまめ、膨らませるな

好かれていると思うな

図に乗るな、感謝と謝罪は常に口にしろ

無駄に笑うな、ごまかしで笑うな

わかってないことを漠然と口にするな

もたもたしゃべるな

相手の話に乗っかって自分語りをして流れを奪うな

相手の発言を盗むな

相手の反応をちゃんと読め

同じことを繰り返すな

同じことを繰り返すな

何にも集中できない

ここを更新してない間も色々書きたいことはあった

 

爪がなんとかなっても噛み癖治んなきゃ意味がない、とか

自分にとって仕事とは何か、とか

人と会話することについての持論の変化、とか

衛生観念の終焉、とか

 

それらを押しのけて今回書こうと試みる内容は

誰にも言えないわけではないのに言語化すること自体が自分にとっての毒(だと自分が定義している事柄)について

割り切ることや諦めることを今せずにズルズルと非言語化のモヤのまま抱え続けることは、

言語化によって自分にラベル通りの認識を刷り込むことよりも害が大きいと判断しての行動

こんなことで食事すらままならなくなるのが自分という卑小な人間なのだから仕方がない




以前、性欲がいかに判断力を鈍らせるか、という昔話を書いた

相手をよく見極めないまま自分の欲の赴くままに言動を積み重ねることは、自分にとっても相手にとっても不幸でしかない、という反省は今も念頭に置いているつもりだった

 

それでもこいつは、典型的感情の奴隷である自分の我慢をいとも容易く折れさせようとする

元々忍耐力が著しく低い自分にとって、ただでさえ抗いがたい性欲を我慢することは非常に難易度が高い

この期に及んで短くない付き合いの友人に自分の醜い性欲をぶつけそうになっている

いや、既に耐えきれず若干ぶつけている

前回の反省や後悔もまだ冷めていないというのに

この友人との関係が少しでも崩れたら最後の拠り所そのものが滅失するリスクが余りにも大きいというのに

自分を殺しかねない行いを自ら抑制できずに行ってしまっている自分を既に殺したい

そういう状態



とにかく苦しい

黙って耐える以外にできることがないのに症状は悪化する一方

 

現状だけ書いたところで収まりそうにないので

とんでもなく長い文章として関連事項を全部ここに置いて行って

自分の思考メモリの開放と無関係な人が読む意欲を削ることを目標とする

とにかく自分の事しか頭になくて欲に弱い人間がつらいよーってウジウジしてるだけの何の面白みもないゲロです






自分と長いこと遊んでくれている少人数のグループがある

学生時代からの付き合いで、別に全員のクラスや部活が同じだったわけでもないのに

その遊びだけを接点として今日まで関係が続いている稀有な縁だ

自分はこのグループで遊ぶのが心底好きで

自分が死ぬまでこの面子で遊び続けたいと本気で願っている

サシではない友人関係はこのグループしかないので最後の拠り所でもある

この関係に歪みが生じることを自分は何よりも恐れている

 

感染症がひと段落つこうかというタイミングになって

我々はオンラインでその遊びをするようになった

かつては1年に1度程度、誰かの家に集まるのが通例だったが

各々が自宅から参加できるとなれば頻度が格段に上がるのは必然だった

 

我々は常に全員でその遊びをしているわけではなく

遊びのルールの都合によってグループ内の数人だけ集まるときもあった

オンラインでやろう、となった時の最初の遊びはまさに数人だけで

前回遊んでからしばらく経っていた

 

久方ぶりに話す友人たちと濃い内容の遊びをして

自分はこの上なく浮かれていた

 

その久しぶりに集まった中に、友人Aという人物がいた

Aは当案件の中心人物である

高い熱量と厚い知識量と豊かな思考、そして立派な自他境界をもってこの遊びに彩を添える

このグループの重要人物の一人である(自分以外の全員が重要人物である)

Aは人柄が読めなさすぎる不思議な人物、という印象が強かった

ゲームが上手く、遊びの内外において面白い言動が多い

どこか抜けているようでいて着眼点や洞察力が鋭く、一筋縄ではいかない上位存在に見える

他の面子とも遊ぶのは当然とても楽しいが、Aがいると特に心が躍った

全く理由はわからないものの、Aを非常に気に入っていた

それは学生時代に初めてこのグループで集まったときから今日に至るまで一貫して変わらない事実だ

 

自分はインターネットの向こうの活動者に傾倒することや

目上の人物を推しに据えたりすることはあれど

対等な立場の身近な人物に強い好意を抱いたことはなかった

親は当然に大事な人物で比較の対象にいない

他の友人たちは自分と繰り返し遊んでくれる有難い存在

自分は好きでなくなった元友人は容赦なく縁を切り捨てていく罰当たりな最低人間なので

関係を続けさせてもらえている友人は全員が好きであり

その中でも推しみたいな人ができることがあるんだなあ、と

Aに強い関心が持てていることを喜びさえした



オンラインで遊ぶようになってからしばらくしたある日の深夜

サシで通話していた同グループの友人Bから不意に言われた

「お前はAに恋愛感情を抱いているんじゃないのか、学生のころからずっと」

自分は閉口した

 

正直、自分でそう考えたこともあった

でも自分の知っている恋愛感情とは異なっていた

そもそも「これは恋愛感情だ!」となったところでできることはなく自分が苦しくなるだけでハッキリさせるメリットなど微塵もなかった

それを友人Bは本人に向けて言語化したのだ

「お前はAのことずっとそういう意味で好きなんだと思っていた」と

 

そもそもこのグループは全員同性で

常識的に考えて恋人の取り合いでもない限り恋愛沙汰など起きるわけがない環境だ

そこにどうしてそういう視点が混じるのかといえば

友人Bは学生時代から己の性的指向についてよく考えていた人物だったというだけだ

なお友人Bは現時点ではストレートだと表明している

 

自分が学生の時に同性と交際していたことを友人Bは知っているので

それ以後にそう考えるようになったと言われればまだ納得がいったかもしれない

しかし自分がまだ自分をノンケだと思っていた当時から

友人Aのことを恋愛対象として見ていたのだろう、と物知り顔で言われては

短気な炎タイプの自分はムッとしてしまうのだ

 

それが恋愛感情のタネであることを自分で薄々感づいていて

あえて否定し続けたものを他人から暴かれることへの不快感もあった

数年の間に度々あったかもしれない強い関心のそぶりが他人にバレていたのも恥ずかしかった(Aの近くに寄りたい瞬間があった自覚がある)

こんな自分でも特別好きな友人ってできるのだなあ、という喜びを正面から切り捨てられた悲しさもあった

直前の話題の最中、自分の感情を伝えることは我慢すればよい、と常識のように言ってのけたBが「お前があまりにAの話をするので嫉妬たまらず言ってやろうと思った」とのたまうので怒りさえ湧いた

 

他者の介入によってまざまざと輪郭が明瞭になったこの感情はもはや無視を許さず

Aに声をかけ目を見るたびに緊張し

Aと遊ぶたび言動に自分の童貞さがにじんでいないか警戒し

Aと遊び終わったあとの反省会で童貞挙動が一切隠せていなくて絶望する

本当にこれが恋愛感情なのか何度も疑い

やっぱり違うんだよなあ、で本当の原因として考えられる可能性はただの性的欲求で

あまりに汚くて泣きそうになる

意識すればするほど言い逃れができない状態になっていくことが苦しくて

Bに責任転嫁する意識が止められなくなった

 

恋愛感情があるんじゃないかと言われて以後も

グループで集まる頻度の高さは変わらず

むしろ感染症禍で遊べなかったブランクを取り戻すかのように一層打ち解け

今更はじめて酒を酌み交わし

お互いのパーソナリティを認識し始めた

 

Aとは一部趣味が被っていることがわかり

サシで通話する機会も増えた

朝まで徹夜で趣味以外の話をすることもあった

 

大人数の飲みの席で、直前に場のノリで付けた録音を消さぬままスマホを置いてトイレに立ったことがあった

あとから録音を確認したとき残っていたのは、このグループには珍しい恋愛の話だった

全員から告白されたAが場に返した言葉は「いうてみんなノンケやろ?」だった

当然、全員同性であるからして告白が冗談であることは明白だ

Aは自分よりユーモアに富んでいて、分かりやすい冗談を真に受けるような人物ではない

そんなAがまるでその場に本気の人物がいるか確認するような言葉を発している

自分は驚くとともに期待を持ってしまった

もしその場で「いや、拙者はバイでござる」と名乗り出る者がいたらどう返すつもりだったのか気になって仕方なかった

 

というか、そもそもAがストレートなら自分のこの期待は時を待たずして打ち砕くことができるではないか

楽になれるではないか

 

解決策にようやく気付いた自分は通話中どう聞き出すかに気をとられまくっていた

しかし自分から仕掛けることもないままAが流れでこう言った

「このご時世だから同性も好きになれたら面白いけど、残念ながらめちゃくちゃノンケなんだ」

 

胸にわくのは安堵とショックと反発心

面白くもなんともないぞと分からせてやりたくなる濁った欲求

額面通り受け取ってよいものか迷うような言い方に拭い去れない期待

それを精一杯押し殺してなるべく自然に返す

「わかるわ、自分も悲しいくらいノンケや」

 

そもそも我々はオタクとして同性間のそういったコンテンツを好んでいる者たちであり

現実のそういう話題に関心があるのも自然な範囲

しかしAが提供してくれるその手の話題をどうにも割り切って聞くことができず

反応を試されているんじゃないかと勘繰ることをやめられずにいる

結局のところ性欲を完全に消し去ることは本当に難儀だということがわかっただけだった




そもそもなぜ恋愛感情であることを認識したくなかったのか、と友人Bに聞かれた記憶がある

愛はなるべく声に出して伝えるべきである、という思想をもつBならではの疑問だと思った

 

疑問をうまく返せたか覚えていないが、もちろん理由はある

第一に、ひとつのグループ内で恋愛関係が発生した際、他メンバーへの心理的負担を避けられないのを知っており、そうなる可能性自体を避けたいこと

第二に、関係が破綻した場合に二度とこのグループのフルメンバーが揃って遊ぶことが叶わなくなるのが死ぬほど嫌なこと

第三に、ちゃんとした恋愛感情ではなくただの下心である可能性が大きい自覚があったこと

第四に、万が一関係が成就したとして価値観や性格の不一致から絶対に不幸にしてしまうのが分かり切っていること

第五に、Aの人生に汚点を作りたくないこと

第六に、そういう目で見ていることを自覚した時点で自分の挙動が100%おかしくなるから自分の思考そのものを欺けていたほうが全体に対しメリットが大きいこと

第七に、距離を少しでも間違えれば嫌いになる・嫌われる可能性が非常に高いこと

 

言葉では要らん嘘をこれでもかと吐く癖に自分の感情には一切嘘をつけないクソ野郎ゆえに

余計な問題の種は視界に入れないのが最善策だと考えている

そういう主旨で回答したような気がするが納得してもらえた覚えはない

 

Bのせいではっきり意識して苦しむ羽目になったともいえるが

Bが言わなかったとして無意識の過剰好意が駄々洩れになってグループ全体から嫌われることにもなっていたかもしれない

Bに感謝すべきかどうかもまだ結論をだせていない




自分がAの近くにいたい、触りたい、独占したいという欲を抑えきれるかどうかだけが要点であり

自分がAから好かれるかどうか、逆に嫌われるかどうかはさほど気にしていない

なぜなら好かれる理由などなく、嫌われて当然だということは疑いようのない事実だからだ

 

ここ最近だけでいくつ粗相を重ねているか振り返るのも恥ずかしい

過剰な謙遜、しょうもないマウント、冗談の範囲からはみ出た馬鹿にしたような物言い、セクハラ、アルハラ、強制投げ銭、過剰な隙自語り、サシで関わるたびだらだらと時間を使わせている、面白くないボケやノリの強要

既に嫌われている可能性も十分あるがそれを滲ませずまだ一緒に遊んでくれていることに自分はまた金銭で感謝を示したいと考えてしまう

 

本当に嫌われたとして、その時が待ちわびた開放の時でもある

好かれることの嬉しさは失うのが怖いから開放の方がありがたいかもしれない

 

嫌われなかったとしてもAにだって好みってもんがある

これまで聞いた限りでは内面も外見も自分は箸にも棒にも引っかからないだろう

せめてもっと清潔感ある外見くらいは整えてからじゃないとそんなことを考えるのすらおこがましいという話だ





もし特別な執着がなかったならもっと楽しいことがたくさんあったと思う

ただ楽しい関係でいたいだけなのに自分で勝手にハードルを上げている



二人で出かけたときの服装やこの日のために整えてきたのであろう髪型がとても似合っていて本当に童貞みたいにドキドキしてしまったこと

通話が長かったり軌道修正できなかったりしたときの謝罪に対して狙ったかのように一番あったけえ言葉をくれて照れてしまうこと

長時間をリアルで過ごしているとグループ内で自然発生するおさわりノリで

何故か手をつなぎ、別れを惜しむ恋人のようなくすぐったい手離れがどうして発生したのかわからず混乱しつつあまりに照れすぎて顔も見れなかったこと

ごめんね勝手に触って

ほかの友人がAに触ったり寄ったりしてるの見てあんな妬くと思わなくて

友人に対して妬いてる時点で何も進展しないほうがいいのは間違いないんだって分かって

もうどうしようもないんだということを理解して絶望して

ごめん

ややこしいアホがグループに混じっててごめん



いつかこの感情が消滅する日が来ることを心から願う

現状維持の平穏が欲しい

誰かこのとんでもない勘違いをぶん殴ってくれ

恥ずかしくて情けなくてしにそうだ

麻酔

 

昨年の今頃、自分は自分史上もっとも異常だった。

 

緩慢と詰んでいる、手の付けようがない仕事。

足の踏み場がない家の床と生き方。

埃をかぶったゲーム機。

迫る誕生日。

 

暮らしを構成する各面の谷が同時期に重なってしまったこと。

節目だと自分で思っていた年齢になってしまうこと。

久しぶりに友人と会って、積み重ねてきた孤独耐性がごっそり削れてしまったこと。

すべてタイミングの問題だ。

焦りを感じる要素が一時に重なってしまい、状況を整理する前に混乱してしまった。

それが昨年の敗因。

後に医者にも「混乱してるだけですね」って言われたし、この自己分析は間違っていない。

 

 

なんでこの時死ねなかったのか。それは親が存命だから。

よく「漫画の続きが読めなくなるから」とかも言うしわかるけど、その理由だと生きてる限り続が気になるものしかないから一生死ぬことと向き合えない。だから自分は死なない理由に趣味が含まれない。

生まれたくて生まれてきたわけではないけど、自分の親は親として素晴らしい人間だから、自分が生きているだけで安心してくれる唯一の人に唾は吐きたくない。

親が死ぬまでは死ねないし、親が死ぬところを見たくないから死にたい。でも死ねない。だから同時に死ねたら一番いい。地球が他の惑星とぶつかってくれたらいい。

まあ、そうやって絶対的抑止力だと思っていた親の存在もアルコールの前には無力だったけど。

 

 

誕生日とかいう老いのリマインダー。

人体が最も調子のいい歳に、人生が最も豊かでいられる歳に、自分は何も持ち合わせていない。

それがどうしようもなく惨めで無価値だと思った。

親と親友から来た「誕生日おめでとう」のLINEの通知が何よりも苦痛だった。

うちの親は毎年、小さかった頃の自分の写真をLINEやメッセージカードで贈ってくれる。それまでは素直にうれしかったけど、この時はとにかく耐え難かった。

今日という日を生きて迎えたこと、それのどこにめでたい要素があるのか。

あなたがたが祝福を送った相手は、真っ暗な部屋で膝を抱え足に短い爪を食い込ませて「生きるのをやめたい」と呟きながら号泣している。

生きていたくない人間に対して生きていることを祝うのは十分に嫌がらせだった。

じゃあ死ねよって話なんだけど。死にたいと生きたくないは積極性に差がある。意味が違う。

吐きながら「ありがとう!」と返信した。

 

 

って自分で思ったことを親に知られたとき、親がどう思うかを想像してまた泣く。
不出来な子供ですまねえな。
そして自分はやっぱり親にはなれないな。

 

 

自分は自己肯定感が高い人間だと思って生きてきた。

義務教育時代、自分の考えは基本的に正しく、それをすべて表に出すことは当然の行為だった。

高等教育時代、それまでの傍若無人さを反省して、協調性の向上に努めた。

社会人になって、出る杭になることが明確に己の損になった。そもそも発言の場などなくなった。

自分は変わらなかったし変えられなかった。諦めた。

どんなにだらしないことをしても、見て見ぬふりでやりすごせる自分の自己肯定感が低いわけがない。

そう思っていたけど、そもそも自己肯定感という言葉を理解していなかったかもしれない。

 

 

義務教育時代の自分は、自分という人間の本質が言動に100%出ている。

そして高校以降、義務教育時代のふるまいを全て過ちだと定義して、同じ轍を踏まないことだけに注力してきた。

そうやって自分の本質を完全に否定した時点で、自己肯定感を語る権利がないんじゃないかと、つい最近気付いた。

 

自分の反射的な部分は変えようがないと割り切ることで、己と向き合ったつもりのまま、自分の思考は誤っているという大前提を構成する。

転職を考えても、死ぬことを考えても、思考のほとんどは自分の出した選択肢の否定。

それで否定しきれなかった生き残りを行動に移す。普段の外出や買い物とかもそう。

頑固な持論があるときもある。それを表に出すべきか否かの検討にそれなりの時間がかかる。

だから明確なルールや基準がないものがすこぶる苦手。自分で結論を出せないから。外に着ていく服とか、社会的振る舞いとか。

 

あくまで判断基準は「自分がどうしたいか」ではなく「世間的に無難かどうか」だ。自分は誤っているから。

他人の目がなければ自分は存在しない。存在することを考えなくていい一人暮らしの自宅だけが自分の居場所だ。

そして、どのみち存在していないなら、いつ死んだって同じなのだ。親さえいなければ。

 

 


とかいいながら、本質的にかまってちゃんでわがままで目立ちたがり屋で負けず嫌いで欲深く頑固で誰かの中に存在していたい承認欲求の権化のような自分大好き人間だから、どうにかわがままをねじ込めないかと思案して本音を匂わせたがる。

その最たるものがこのブログだ。

能ある鷹に憧れて隠せない爪を噛み続けている。

 

 

 

今までハマってきた実況者たちもそうだけど、今、生活の大半を占めている香木コンビなんかは能ある鷹の絶対的なヌシみたいなもんだ。

理想なんてもんじゃない。現実に命をもって暮らしていて、事実としてそういう存在であること。これ以上に圧倒的なことはない。人間として最も面白い存在。

もちろん、本人たちが実際どうなのかは知りようがない。自分にはそう見えているというだけの話。

 

自分自身を確固たる生き様として持っていて、それを完全に受容してどんな場所であっても堂々と展開している。

そのうえ、場や人を分析・理解して出力レベルを調節することもできる。しかもなるべく自分を損なわない形で。

極めつけは、出力している「自分自身」がこの上なく無害であること。

ところかまわず自分のやりたいことを貫けるメンタルは超自己中心的なスーパーナルシストとも言える。それが嫌味にならない要因は、香木コンビ特有のいろんな要素があるなかで、一番は無害な事だと考える。

慈愛とか善良とか言い換えてもよかったけどニュアンスが違う。要素としては確かにギバーなんだけど、限りなく仏なんだけど、ここまで完全に善良な人間がいてたまるかという自分の受け入れ難さもありつつ、「他人の時間を自己都合で奪う」とかの迷惑がなくはないというのも含めて、主観的な言葉選びとしての”無害”。

この無害さが、本当に、心の底からうらやましい。

 

 

自分の本質を否定すること自体は正しい。その判断は高校に進学したときも今も変わらない。

自分の価値観で見ても、自分はろくでもない。

マウントを取り、陰口をたたき、悪口を浴びせ、弱者を視界から消し、物事を自分の都合のいいように解釈し、思い込みで他人を振り回し、自分に甘く、保身の為なら人を傷つける嘘も厭わない。テンプレのような害だ。

だから自分は目立ってはいけないし、言動は発する前によくよく検討する必要がある。自分らしく生きることで加害者になる。

 

ではどう考えを改めるべきなのかというと、「己と向き合ったつもりのまま、自分の思考は誤っているという大前提を構成する」の部分。己と向き合って、誤っている箇所を整理しなければいけない。

自分は自分を受容していない。自分を受容できないまま生きるのは苦しい。改善提案も転職も、自分を主体にすることが苦痛すぎて考えただけで胃がもげる。

現状維持を優先しても、理想と現実の狭間でもみくちゃになることに慣れて、自己肯定感の底を掘り下げ続ける。

向上し続けなければ生きることを許されない。自分のことを誉めたり好いたりする人間は自分のことをなにも分かっていない。

自分という反面教師像を見て自分で作ったそんな型に、なんとか肥満体を収めようと奮闘している様は目も当てられない。

それでもそうし続けるしかない。自分を受容できないまま型にはまるのをやめることは死を意味する。

 

 

当然、反発しているだけでは何も解決しない。

解決の意思はある。もっと気楽に人と喋ったりしたい。もっと気楽に生きたい。

そのためにはコストを支払わないといけない。でも支払先がわからない。

失敗経験があまりにも少ない。ただでさえカスみたいな存在が今から失敗を重ねたらいよいよ取り返しがつかないんじゃないか。

やってみるしかない。リスクを取れる人間にしかリターンはない。

リターンを得た自分は調子に乗る。調子に乗って、盲目になる。他人を傷つける。いつもそこまでがテンプレだ。

どうしたらいいかわからない。どうなりたいのか掴めない。できることをやるしかないだけなのに。思ってる暇があったらできるのに。やらない。お前はそういうやつだ。
そうやって悩んでいるつもりでただ時間を無駄にしている。無益。

 

 

 

香木コンビとヤク1000のおかげですっかり元気になり、部屋も掃除できた。自炊も再開した。生活が向上した。

ただ、昨年と同じ濃さの希死念慮がより鮮明な輪郭でずっとここにある。

昨年から状況は何一つ変わっていない。何も解決していない。もう時間もない。

麻酔に浸って面倒事すべてを見なかったことにしている。

誕生日が近づいている。

 

願わくば、この麻酔が切れたとき、最高の走馬灯を見たい。

津波、あるいはハリケーン

前回、前々回の更新で、とあるお笑いコンビに熱が上がっていることを書いた。
その発端から今に至るまで、これといって面白いことは無かったものの、
ここが自分の人生のターニングポイントかもしれないのでとにかく書きたいだけログに起こしておこうと思う。
クソ長いこれ読むくらいならサタンタンゴ2周見る方がよほど有意義。
タイムイズマネーだぞ。

 

 


2021年12月19日の日曜日、夕方。
あとちょっと出社すれば冬期休暇、2日後に心療内科の受診を控えた自分は、
月曜の気配に圧されベッドで寝転がって虚空を見つめていた。
休みが近く、寝不足解消したてだったためにしんどさはそれほど無かったが、
やはり何もやる気が起きない状態だった。

 

そういうときにできることといえば、Twitterしかない。
TL監視は時間を食いつぶす代わりにHPもMPも消費しない。
黄色いカバのアイコンと茶色いマレーグマのアイコンが芸人とM-1について呟いているのを読む。
そういえばそういう時期か。投票結果をツイートしてるってことは放送今日か。
金属バットって『うりゃ』の人か。男性なんちゃらは知らんな。
お、オズワルドとひまわりの人決勝いるじゃん。2019おもろかったな。
へー、聞きなれないカタカナのあのコンビも決勝いってんだ。カバたちが配信でその話してんの聞いて去年ネタ動画見たっけ。

真っ黒な左の人が棒立ちする横で白Tの人が海外有名歌手の誇張マネみたいなことをしているようでしていない、とにかく動いて叫ぶネタをつべで見て、唖然としながら「始発待ちの二人はヤベー芸人が好みなのかな」と思った記憶。

そしてドット絵ハゲおじさんのアイコンの人もツイートをしていた。
「ぼくもM-1みようかな」と。
この人は別にお笑い好きじゃないのに見るのか。
てことは自分も観ておかないと配信の話ついてけない可能性あるな。
そう思って、頭がからっぽのままテレビをつけた。まだ始まってないみたいだった。

オープニングムービー。知ってる人一人もおらんけどかっこよかった。
審査員登場。いやこれめちゃくちゃかっこいいでしょ。テレビつけてよかった。


と、まだ主役たちが出てきてないのに既にノリノリになった自分はTwitterに脳みそを直結し、始発待ちの言動を同期した。

これはフォロワーに同じ趣味の人間がいないのをいいことに、楽しさアピール欲があふれて調子に乗った時のムーブだ。
他人の考えを我が物顔で呟く。知ったかぶりに嘘を重ねる。非常によくない癖だ。
この時は「白黒のやべーコンビの優勝を応援する」「金属バットが敗者復活できるように祈る」という姿勢をインプットした。

この人たちの事なにもしらないのに。

そして、普段全然同じコンテンツについて話すことのない友人2人がM-1のことをつぶやき始めた。
自分はますます調子に乗った。

 

1組目でいきなり腹筋死んだかと思うほど笑った。赤いジャケットのでかい人の説明の時点で着眼点に感動する。壮絶なまでに面白かった。
2組目で確実に息の根止まると思った。奇怪にもほどがあるし既視感もあるのに、なぜか笑わずにはいられなかった。始発待ちインプットによる贔屓がどのくらいあったのかもよくわからない。そういえば自分は勢い押しの芸人が好きだったな、と思い出す。ただただ面白かった。
あとはもう最後まで笑い通し。爆笑なんて久しくしてなかったからとても気持ちがよかった。
真空とももだけちょっとトーンダウンした。頭が馬鹿になってたんだと思う。

Twitterではカバが2組目のせり上がりで泣いてた。
軽々しく知ったかぶりインストールしてごめん、と思った。

 

とにかく、とにかくおもしろかった。
余韻がものすごかった。
Twitterで2組目のネタのノーカット版があるらしいと聞いて見た。
やっぱ意味わかんねえなと思った。後半はどう笑えばいいのかわからなかった。

 

翌日、まだ余韻が取れずオズワルドのつべを見漁った。
ビッグピースが頭から離れなかった。

 

そのまた翌日、心療内科受診の日。
2日間笑いっぱなしだった自分はメンタルがマシになってしまっていた。
解決策は得られなかった。自己分析の答え合わせにしかならなかった。
家に帰ってオズワルドのネタ動画を見た。

しかしオズワルドに飽きが来ていた。
同じネタを2回見れなかった。
そして脳裏にずっと白黒の奇怪なコンビがチラついていることにも気づいていた。
何故こんなに意味不明なのにあんなに笑ってしまったのか。
その答えが知りたくて、Twitterで見かけたつべを見てみることにした。
テレ朝の「もういっちょTV」を最初から。
プロの編集が入った動画ならそんな濃ゆいものじゃないだろう、50本ちょっとの動画群なんて一瞬で見れてしまうな、と思いながら再生を押す。
「始動!」と銘打たれた1本目の動画から、ボケの方がこわいボケをしていてこわかった。

それから一週間、仕事→もういっちょ→就寝ループを繰り返した。
虚空を見つめる暇など無かった。勝手に涙が出てくることもなくなった。
途中、何個も怖い動画があった。たぶんボケなんだろうけど笑い方がわからなかった動画もあった。胃が縮こまるような動画もあった。それでも見続けるのをやめられなかった。仕事中も頭から離れなかった。


どうやら沼に足を、いや大災害に巻き込まれたらしいと、最新の動画に追いつくまでもなく気付いた。
今の今まで抱いていたあらゆる悩み、考察、不安、感情、思考回路の一切を踏みにじられた。事実、踏みにじられた。コテンパンに。跡形もなく。
経験したことのない感覚だった。わけわかんないのに清々しかった。
茶番の天才出てこいやソングの歌詞そのままに、「俺の心を土足で踏みにじるような」天才。それはこのボケの人だ。そうとしか考えられなかった。
当の天才は自分が面白いと思うことを思いついたままにやっているだけのようだった。
そのシンプルさが凶暴極まりなかった。
対峙して為す術などありゃしなかった。
こんな人間が存在してたまるかと思った。
こんな人間がいるならまだ人生捨てたもんじゃねえなと思った。


しかし自分は冷静なつもりだった。

今まで芸能人に興味が向いたことは一度もない。特別好きな芸人がいたこともない。
強いて言うならアクセルホッパーが好きだったがあれはネタの一つにすぎないし、たまたま見れたらラッキーくらいの、好きと言っていいのかすら微妙なレベルだ。
だから今回も一過性の熱だ、2週間もしたらすべからく飽きるだろう。
そう思った。
結果、それがとんだ見当違いに終わったことはご覧の通りだ。


そこからはもう、すべての時間が香木コンビだった。
芸能人の追っかけ方がさっぱりわからなかったり、ファンの性質が見慣れなかったり、とにかくなにもかもが新鮮だった。
予定を把握する。観る。笑う。
各種情報を遡る。観る。笑う。
ライブ配信を買う。観る。笑う。クレカの利用明細を見て青ざめる。
共有欲が抑えられなくなる。家族に見せる。いっしょに笑う。
情報量の多さに熱が出そうだった。いくら観ても全然観尽くせる気配がなくてわくわくした。
それは今も変わらない。

人柄やエピソードの蓄積によるものなのか、単に慣れたからなのか、
M-1でやったネタのフルバージョンもいつのまにか最後まで面白く見れるようになっていた。
川原さんのつべに上がってた花見バージョンが最高だった。

 

ライブにも行った。
間近で見る香木コンビのネタは迫力が違う。空気が違う。
ボケが空を切る音が聞こえる。ツッコミが動く気配を感じる。
ボケの人はえげつない量の汗をかいていた。ツッコミの人は顔が白かった。
生で見る二人は、画面越しで見るよりもごつごつしてるな、と思った。
当然、べらぼうに面白かった。酸欠でしぬかとおもった。

このライブを生で観れたことが一生涯の思い出になることは明らかだった。

まだあれからひと月も経っていない。今も余韻をかみしめている。

 


毎日笑い声をあげているからか、体調不良が著しく減ったように思う。
しかし、部屋の汚さが昨年の比じゃないことを考えると、今は麻薬を浴びてハッピーになっているだけかもしれない。
しぬなら今だと強く思う。
でもこんなにアクティブで自立できていたことは生涯で一度もない。
せめて世間に気後れしない状態を謳歌したい。

人生、まだ変えられるかもしれん。