パンピももはや死語なのだろうか。
鍵垢に閉じこもり一人で消費行動を繰り返している自分には知る由がない。
この手の感覚はググってもあんまりしっくり来ないことが多い。
どっちつかずで浅い中途半端な自分は、どちらかに属している人から等しく嫌われやすい存在であることを自覚している。
それはそれで構わないのだが、この疎外感は一生消えるものではないなと思い直す出来事があったので、この機会に明文化しておこうと思った。
なお、この文章における「パンピ」とは一般ピーポーの略、オタクではねえだろうなと自分が思う人のこと(説明が難しいが、歳食ってから読み返しても自分には伝わるだろう)。
「オタク」とはインターネットやコンテンツに精通し、愛し、自然と創作活動に至るような、「”好き”のためならなんでもできる」ような人のことを指す。
世間一般的なオタクではなく、自分の見える範囲で”好き”に頭焼かれたひとたちのことをオタクと書いているので誤解なきようお願いしたい。
確実にパンピではない
パンピとオタクの狭間にいる人のことを、仮にグレーと呼ぶ。
パンピかオタクか、のグレースケールでいうなら、オタク寄りのグレーであることは間違いない。
パンピの思考回路が理解できないこと、自分の周囲にはオタクが多いこと、の2点がその理由だ。
極端かもしらんが、最近の実例がある。
美容師にライブの話を聞かれ「あの大御所芸人がテレビと違って尖ったことやってて面白かった」と答えたら「やば!分析してますね~」と返されたこと。
会社で配られたお菓子食べて「これクリームとクッキーの相性超いいっすね、うま」って言ったら「食レポしてるw」と茶化されたこと。
自分はそういう返しをしてくる人にパンピのラベルを貼るし、できることなら業務連絡以外何もしゃべりたくない。彼らは、分かり合えないということを分かり合えない人種だ(と私が思っている)からだ。
オタクに同じことを言ったとしても、「ええやん」「わかる」「せやろか」と同じレベルで話をしてくれる。
これ自分の環境が特殊だったりするんか?世間のオタクもそうじゃないんか?
しかしオタクでもない
理由を列挙してみようと思ったが、どうやら明確な理論でそう考えているわけではなく、経験と体感でそう思っているだけらしい。
ただ、明確に自分はオタクではないのだ。
少なくとも、自分の今の環境においては、はっきりと非オタクである。
友人にも「あなたはオタクではない」と言われたばかりだ。
別の友人はオタクだよ、と言ってくれるが、自分がそれを100%で受け取ることができない。
明確にこれだけは違ぇな、といえることが2点ある。
ひとつは「コンテンツの着眼点と愛し方」、
ひとつは「エロを共有することに対する耐性」だ。
着眼点と愛し方
これはオタクとパンピを対比させるにはちょっとずれた話かもしれない。
そもそも好きなジャンルが友人たちと全然かぶっていないから土俵自体が成立していないともいえる。
自分はその作品をトータルで好きになり、ストーリーや展開、セリフの妙などに惹かれ、結果として特定のキャラクターを贔屓するようになることが多い。二次創作はあまり好んで見ようとは思わないし、自分で二次創作をすることもなくなった。
友人のオタクたちは、ストーリーやその作品を好きになることは語るに及ばず(好きであるという前提、語ろうと思えばいくらでも語る用意はある)、推しにどっぷり着眼して二次創作をひたすら漁り、そのキャラの背景や関係性を深掘りしていくのを好む(という印象)。さらに言えば、俗にいう性癖、自分がどういう属性に強い魅力を感じるのかを明確に把握している。
どういうオタクをやってきたか、の違いであると言ってくれるならそうなのかもしれない。自分は「この話おもしれー、このシーン好き」みたいな体験や感情を擦りたくて何度も全体を周回する事が多い。他の人がどうかは知らない。
愛し方は明確に違う。自分は「消費を重ねるだけ」、オタク(友人たち)は「二次創作をする」だ。穀潰しと生産者の隔たりはオタク界における人権問題、絵も解釈も生み出さない者に物言う権利はない、そういう認識。自分は貝のように錘ります。
一番創作側のオタクをやっている友人が「創作は消費ありき、自信を持て」みたいなことを言ってくれたけど、柵の向こうの意見だなと感じた。
エロ共有耐性
これだけは本当にどうしようもない壁だと思う。
そもそも自分はこれまでの人生、他人とエロい話をしたことが数えられるほどしかない。それが完全なフィクションの話であっても自分の性欲を丸出しにしているようで、恥ずかしさと自分の気持ち悪さと無知晒しに堪えられない。
歳を重ねるごとにより潔癖さに拍車がかかっている気がする。
自分はエロい自分をなによりも認められていない。向き合っていない。
これは明確な理由があると推測できるけど長くなるので別記事にまとめる。
ウブ装いてえわけでもねえのに一人だけモジモジしてんの、
本当に恥さらしなのでやめたい。
でもできない。つらい。
オタクになりたいわけでもない
これが一番この話をややこしくしている。
自分はオタクになりたくない。
何故か。オタクをやっている自分が気持ち悪くて許せないから。
この自分を許せないという感覚と、
Twitterで見かけるようないわゆる限界オタクと呼ばれる人のような振る舞いに対する強いアレルギーには原初体験がある。
自分のオタク遍歴をさかのぼればすぐにわかるので以下記載する。
そもそもオタク気質の人間ではあった。
小学校に上がってからあるアニメにドハマりし、データ集を自作したりしていた。
父親がゲーム好きだったのもあって、セガサターンでシューティングやアクション、パズルゲーをずっと遊んでいた。GBASPを買ってもらってからは同じソフトを何周も遊んだ。母もアニメや漫画を好んで見ていた。
友人たちとの主な遊びは川や山、公園で走り回ることだったけど、時折アニメのごっこ遊びなんかもしていた。
進学して、初めて「オタク」という概念と遭遇した。
インターネットという存在に触れ、ボカロを覚えた。
BLというものがあるらしいと知ってDSのブラウザでそういう小説を読んでみた時は刺激が強すぎて腰が抜けた。
隣の席の女子(2ch見てるタイプのヲタク)がお絵かきをしていたので見せてもらったら稲5の腐絵で怖かった。
オタクコミュニティに属したのは高校から。
入学直後、授業で隣の席だった女子(同人誌頒布するタイプのヲタク)と話したのがすべての始まり。
あれよあれよという間にTwitterを教わり、ゲームを布教され、一緒に遊ぶようになっていた。
インターネットにしっかり触れ始めたのはこのタイミングだったので、最初はTwitterの使い方もわからず、ボカロのなりきり垢を本物と思い込んで執拗に話しかけて遊んでいた。
それからゲ実にハマった。Twitterではしゃぐようになった。
学生オタクの痛々しさの権化のような振る舞いを2年以上続けていた。
それはそれで付き合ってくれるフォロワーが当時は多数いたし、自分は楽しかった。
調子に乗りすぎてフォロワーから苦言を呈されたり喧嘩したり、2chにさらされたこともあったが、自分の行動は間違っていないという謎の自信が非常に強く、反省というものを全くしなかった。
アレルギーが出たのは本当に突然のことだった。
裏垢を眺めていてふと気づいた。
視界が一歩引いたかのような感覚だった。
自分が今の今まで属していたその集団、
自分、
むちゃくちゃキモくない?
いや、キモい。
これが、私こそが「信者」ってやつではないのか?と。
目が覚めた、とはこの感覚を言うんだと思った。
原初体験とはこのことを指す。
後から考えれば、当時主流だった嫌儲・冷笑・性差別文化に突然カチリと迎合してしまっただけで別に目覚めたわけではなかったし、これがなければ自省も覚えず最悪な事態になっていたと思うのでこれでよかったのだけど、強い体験として神経の隅々までこの感覚が染み渡っていった。
性格の悪さに拍車がかかっていった。
進学してから一年ほどは勉強と睡眠しかできなくなり、Twitterの浮上頻度はがくんと落ちていたんじゃないかと思う。
ただ、美術の友人も一緒に進学していたし、さらに彼女のご友人もこれまたゴリゴリの創作ヲタクだったため、むしろオタク濃度は上がっていたように思う。
卒業までの間に彼女とは疎遠になり、自分はゲームとゲ実に回帰し、今のスタイルに落ち着くこととなる。
Twitterは垢消しし、鍵垢に籠った。
これは当然の流れではあるものの、鍵垢に引きこもってからインターネット耐性が目減りしていった。
友人たちと会う頻度も当然落ち、オタクとの接点がTwitterしかなくなった。
結果、慣れというアーマーが年々薄くなり、気付けば冷笑と差別しか残らず、
かつての痛々しい自分を現在見かける女オタクたちに投影し嫌悪感を抱き続けている。
以上。
アホみたいな経歴だ。
自分がオタクになったらどうなるか知ってるし嫌悪感がぬぐえないからオタクになりたくないけど、友人たちがオタクだから仲間に入れてもらいたくて再びアーマーを着たい。
しかし社会人になってから精神が日和ってデブった自分が即席で身に着けられるオタクアーマーはどこにもありませんでした、という話。
文字に起こしたら浅すぎて笑ってしまった。
まだ自分と遊んでくれる友人たち、懐が深すぎる。
このブログで脱臭を試みているのも上記が原因。
意識したくらいで文章の書き方は変えられないのに無駄なあがきをしている。
後から読み返したときにキモって思うのが怖い。思われるのが怖い。
疎外感
他人と同化することを仲良くすることだと思っている節が無ければ、こんなことで疎外感を抱くことはないんじゃないかと思う。
でも努力では埋まらない溝だ。相手もズレや違和感を修正しながら自分と付き合っていくのはしんどいだろう。そういう推測をやめろって話か?
自然体でいればいい、とかいう贅沢すぎる目標は身を滅ぼす。
少なくとも、自分の自然体は身近な人にって害でしかない。ちょっと疲れたりちょっと混乱するだけで、その本性はすぐに顔を出す。油断ならない。
自罰的でないと人前に出ることすらできないのは、こんな自分に時間を割かせる罪悪感に耐えられないから。
友人におごりたがるのもそうかもしれない。慰謝料を受け取ってもらわないと自分の気が済まない。いたたまれない。
オタクと遊んだり知らない話聞いたりするの、
自分は楽しいけど、みんなが楽しいかは一生知りえない。
オタクはオタクじゃない人間に付き合うのつらいでしょ。
そのために死ぬ覚悟はありますので、
人数合わせの必要がなくなったらいつでもお申し付けください。