はつもの

いきてるよ~

性別とかいうクソ面倒くせえ概念

「めんどくせえ!めんどくせえ!!MAXめんどくせえ!!!」
っていうネタやってた芸人いたよね。好きじゃなかったけど。
性別について考えてる時の自分の脳内には常にこれが流れてる。

これまでの人生で幾度となく「性別めんどくせえ!」って思ってきた。思うだけで変えたいわけでも対抗したいわけでもなかったけど。
近年はセクシャリティの話題とか増えたし、あと普段好んで観てる男くせえ配信(褒めてる)とかに触れて思うところがあるんけど、わざわざリア友に聞かせるような話題でもないかなと思ったのでブログに残しておく。なお、別に詳しく調べたりしたわけではない。
センシティブな話題ではあるがあくまで私見なのであまり深く考えていなかったりする。
話の切り口がいくつかあるので見出しなんかつけてみたりして切り分けて書いてみる。
 
ひとをあいするということ
性別の話をするにあたって前提として必要かなと思ったので先に書いておく。
自分はシスジェンダーヘテロセクシャル。ごく一般的なノンケ。
って、数年前に突然同性を好きになるまでは当然のように思っていて、それを疑ったことなんかなかった。
なんならお付き合いしていた最中も、別れた今も、恋人以外の同性にはそういう感情は全く湧いたことがない。異性のえちえちなやつ好きだし。
この時の話は長くなるので後日別記事にするとして、初めて真剣に自分の性と向かい合ったのは紛れもなくこのとき。
恋愛経験が乏しすぎて今のセクシャリティがはっきりしてないんだけど、たぶんバイセクシャルパンセクシャルなんだと思う。同性への好意を恋愛感情だと勘違いしただけでまだヘテロ説も考えたけどちょっと無理がある。もしヘテロのままだったなら、「いつから自分がノンケだと錯覚していた?」なんて言葉に落ち着くはずがないからだ。
同性を好きになったから生活が一変、みたいなことは全くなくて、強いて変わったことを挙げるならLGBTs関連のネットの話題に少し過敏になったくらい。セクマイの生きづらさみたいなものを真に理解できるのはやっぱり当事者だけなんだなって思った。なお、自分は当時も全く生きづらくなかったので、セクマイではないか性格がひん曲がってるか、心から普通のことだと思っていたかのどれかだと思っている。
その経験を経て、好きになる相手の性別って意外と関係ねえな?って思った。付き合う相手が異性でも同性でも相違点ってほとんどない。マジでほんとになんにも違うところなくて、自分がノンケじゃないということを受け入れられずにいた頃に逆にびっくりしたのをよく覚えている。
だから、世間の同性婚だなんだっていうやつ見てると「性別っていう区分けめんどくせえな」と思う。恋仲になってしまえば男も女も関係ないんだから扱いを分ける必要がそもそもないんだよな。まあそれは両性と付き合ってみないとわかんないことだから仕方ないんだけど。
LGBTsに突っ込むと長くなるのでその辺はまた別の機会にまとめる。
 
他の些細な自分の特徴も列挙する。恋愛は好きな人が出来てから考える派。結婚願望なし。子供作る気あんまなし。自分の性別に「らしさ」を求められるの嫌いだけどらしさに寄せることに義務感を感じる。ツイフェミやだ。匿名インターネット特有の女サゲもやだ。創作世界の性は別になんでもいい。男女平等を語るなら一度自分の性別忘れろ主義。
ノンケじゃないって分かる前からこの辺は一貫してる。
 
 
性別という概念
「性別は概念じゃないが」って思うかもしれない。
でも個人が生まれ持った生物としての性と、社会的な区分・特徴として使われる性は全く別のもので、そして社会で使われる性別とかいう区分はただの概念でしかないと思っている。最近諸書類の性別入力欄がなくなったとかいう話聞いてるとやっぱデータとしての必要性薄いんじゃないかなって思う。
 
多くの人はどっちかの性器を生まれ持ち、それに沿った性徴を経て、それに合わせた暮らしをしていく。
それはホモサピエンスとしてしょうがないことであり生きている限り避けられない。肺は呼吸を、心臓はポンプをって役割分担がされてるものは、自分自身の考えなんかお構いなしに役目を全うしようとする。だから性自認に関わらず股から白いのとか赤いのとかが出たりするし、身体のビルドも選べない。体の性別は特徴であり個性ではない。
「自分にはこの性器は合わない」と思ったら取り外す・取り換えるっていう選択肢がある時代に生まれてよかったなあと思う。自分もできれば性器まるごと移植バンクとかに提供したいなって思ってる。今のところ邪魔なだけなので。だめかな。
 
対して社会的性別ときたらどうよ。あんまりいらなくない?
身体的特徴はそりゃ性差あるよ。力仕事は男性が比較的向いてるとか、繊細な仕事は女性の方が得意な人多いとか。でもそれって傾向・慣習・統計上の話であって、結局それぞれの人が力持ちか繊細かっていう特徴は性別で決まるんじゃなくて努力やら好みやら脳みそのパターンやら諸々が組み合わさった"結果"であり"個性"じゃないの?クソデカ主語に勝手に含めてくれるなよって思っちゃう。あくまで例だしそんなところまで気にしてたら社会回らねえよとも思うけど。
もちろん、性別があるからこそ成り立つものは大事だし、そこには性別っていう概念は必要だと思う。それは性別を前提としたコンテンツだから。女のみ、男のみじゃないと成り立たない空気感とか文化っていっぱいある。女らしさや男らしさを自分で定義して自分に当てはめて努力したり探究したりするのは好きでやってることだから自由に楽しめばいい。それが自分は好きだし、これからもそうあり続けてほしいと思う。それはそれで素敵。
学校の制服とか、会社の役職とか、身だしなみとか立ち振る舞いとか、性別による区別が全く無意味なところで未だに「女らしく」「男らしく」を無駄に意識させられることが多いなと感じてしまうこともある。学校の制服は統率意識を持たせるため、会社の役職は能力次第、身だしなみも立ち振る舞いもマナー優先、ってそれぞれ目的があって存在しているもののはずなのに、そんでその目的は性別抜きでも問題なく達成されるものなのになんで性別の話持ち込むのかがよくわかんない。スカートもパンツも穿きたい人が穿きゃええやん。なんなら全員スカンツでええやん。だめかな。
 
会社の男女均等に関しては先人の努力で法整備も進んでてそういうフェーズではないと思うけど、感覚的な男女差別はまだ現場にはたくさん残ってるからなかなか根深いもんなんだなあと思う。男なんだから~って仕事を押し付ける人、女なんだから~って挨拶回りに同伴させる人、男なのに?女なのに?って容姿や好みにケチつけてくる人、うちの職場の実話だけど意味不明。立派な性差別だと思ってるけど、それを見てる人たちは全く気に留めていないようなのでなんだかなあと思う。
異性付き合いが少ないので具体例があんまり出てこないけど、男女で何か違わないといけない決まりでもあるんだろうか。
 
 
社会で人とやりとりしたり人間として振舞ううえで「性別」っていう情報はなくても成り立つよね?って言いたい。であれば体質としての性別と概念としての性別は切り分けられるよね?っていう主張。
男性脳か女性脳かで多少価値観や振る舞いに傾向はあるだろうけど、前述のホモサピエンス特有の都合とかはもうそういうものだからスペックと結びつけないでほしいなって思う。都合の点で言うと出産関連の色々がある分女性の方がどうしても負担大きいだろうし、しょうがないこととはいえ何とも言えない気持ちになる。
 
一人称
頑なに一人称を「自分」にして、できるだけ己の性別をぼかして記事を書いているつもり。
ネット上は特に性別ごとの先入観がコチコチに固まってるから、そういうのに括ってほしくない。でも自分は自分の性別を知ってるし、自分の性別ゆえの嫌なこと、よかったことがたくさんあるから、それを引き算して文章にできてる自信はあんまりない。
どうだろう。どうせ未来の自分も今の性別のままだから答え合わせ出来ないな。
 
 
一人称っていろいろあって面白いなと思う。
個性があっていい。人物像を形作るうえで基本的な印象が左右されやすいところだと思う。
「私」なら丁寧かな?とか。「俺」ならフランクかな、とか。「アテクシ」ならネタだな、とか。
TPO次第で印象はいくらでも変わるけど。ビジネスの場面は基本的に「私」がスタンダードだと思ってるからそれ以外の一人称使ってる人見るとほぉ…ええやん…って思う。
 
匿名の場所の場合、一人称には「多数派」がある(と思う)。
配信のコメントやチャット、ゲームのグループとか。自分は普段見てる配信のコメントしかよく分かんないけど、ある程度人がいる閉鎖空間で、テキストだけで、ってなると一人称の持つ情報って意外とでかくなる印象。そして少数派はどうしても浮く。当然それは視聴者層と連動してる。
「視聴者は男しかおらんやろ」って配信主が言うような配信は確かに一人称「俺」「ぼく」が多くて、「私」はどうしても女性っぽさが出る。
逆に「私」って使う人が多い場所で「俺」って使ってる人見ると、急に性別アピールしてるような印象になる。あくまで自分は。
誰でも参加できるコンテンツである以上どっちの性別がいてもおかしくないけど、「私」か「俺」のどっちかに偏ってる時は一体感(?)を感じてて違う一人称が混じった途端その一体感が崩れる。
普段、女サゲが横行する男臭い配信ばっか見てるせいかもしれないけど、自分はその空気が好きだから男臭さを壊してほしくなくて、一人称私を見かけるとやだなあってなる。単純にネット上の女の人の総合的な印象があんまりよくないっていうのもある。
私と俺、両方がそれなりにいるとこなら別にそういうこと考えないし。
 
未来の自分の為に今何を思い浮かべてるかも書いておく。
男性配信者が「おじさんしか視聴者いないから…」って言ったことに対する「私もおじさんかぁ」コメとか。コメ主の性別知らんけどどうしても男性のコメントとは読みとれなくて無理。
男性配信者が「おっさんしか見てねえよ」っていう話をしたときの「女は臭いって言われるから私も普段は”俺”って書くようにしてる」ってコメとか。擬態してることをバラすのはストレートに一番気持ち悪い。ギルティ。
前項と言ってること違うやんけって自分でも一瞬思ったけどこれは性別があることで成り立ってる空気がある超内輪空間なので違う問題。
男尊女卑でもない。女性主体のコミュニティを自分が全く見てないから逆パターンの知識も例もないだけ。
そんなに自分の性別がコミュニティの性別と違うってアピールしないとダメなんか?場の空気濁すことに全く抵抗がないのはなんでなんや?自分が気にしすぎてるだけなんか?わざわざ言わなくったってツイッターや動画見てれば女性視聴者も結構いるなんてのは一目瞭然なのに。
自分の好き嫌いの問題でしかないっていうのはわかってるけど絶対他人の共感得られないこれ。人にこの話するの避けよ。そのコミュニティの空気に馴染む気も話題への遠慮も配慮もないコメントは臭くて嫌い。その一人称、本当に必要か?
 
雑感
この文章を書きはじめて1ヶ月くらい経ってしまった。言いたいことが右往左往したこととどうしても消化不良になってしまうことが概ねの原因。
書いてる最中にあった足立区議のアレとかね、調べもしねえで妄想を公言するのはよしたまえ!!!ってものすっごいフラストレーション溜まってしょうがなかった。清々しいくらいに事実誤認と思い込みのオンパレードだったから逆にいい教材になりそうだったけど、やはり知ろうとしない態度は罪深い。
あと先日哲学について若干の知識を得たことで、大発見や!と思ってたものに大昔から名前がついていることを知って若干の衝撃を受けたりしたので、きっとこういうジェンダーレス的思考にもしっかりネーミングがあるんだろうなあとは思っている。分かってるけど。女!男!その他!がそれぞれ主張しても誰も目立たないような横並びになれたら一番いい。LGBTsじゃなくてLGBTS+になったらいい。Sはマジョリティの皆様たるストレート。
 
「自分」が性別不詳的印象になると思い込んでるのがそもそも間違いだったらどうしよう。
所詮一人称でしかないから、言葉の端々や思想に性別がにじみ出るのは自分では認識できないしどうしようもない。
自分の性別について書きたいこと山ほどある。自分の性別をぼかそうとすると自分が性別めんどくせえ~~~!!!!!と思っている理由の半分も書けなかった。気が向いたらそういう話をすることもあるかもしれないけど。
今ここではノンバイナリーでありたい。生温かい目で見逃してほしい。