はつもの

いきてるよ~

ママ~聞いて~

妄想と欲求と願望が先走って周囲が見えなくなるのは今に始まったことではないが、この歳になってもそれが直っていないのはいかがなものだろうか。
たとえそれが他人に迷惑をかけていなかったとしても。
 
一度「言いたい!」と思ったことを言わずにはいられない。
くだらないダジャレとか、ただの感想とか、レベルの低い欲求ならツイッターに殴り書いておけばそれで収まる。
厄介なのは、「言いたい!」の中に特定の人物から認知されることを欲求として含んでいる場合。
その対象が対面で話す人であればある程度自制が効くこともあるが、この場合自制心なんてものに期待してはいけない。
さらに厄介なのは、この欲求の発生タイミングに関わらず頭が「言いたい!」に浸食されて他人の話を聞く耳と状況を見る目を失ってしまうこと。
口は災いのもと、と念じて、それがどんな内容であれ、当たり障りのない言い方に変えるなり諦めてダダ漏れにするなりしているが、そもそも意志の弱い自分の自戒では限界がある。結果、「人と話さない」という抜本的対策をとることになり、自戒の強度はさらに落ちる。
リアルの付き合いがある人は多少の人読みをしてくれるし、自分という人間と対話してくれるのである程度真意を伝えるとこまでたどり着ける。この問題において唯一の救いであると同時に、この経験が世間一般に比べて圧倒的に少ないことがそもそもの原因だとも思う。
 
 
言いたい対象が配信者だった場合。最悪である。
まさに配信者相手にやらかしてしまったこのやるせなさを書き留めておきたくて文章をしたためている。
その人が配信するのを待って、話題が切れるのを、もしくは言えそうな話題になるのを待って、何度もコメントを作り直して、ここぞというタイミングでEnterキーを押す。たいていの場合、眠気に抗いながら、酒の力を借りながら。
我ながら気色悪いことこの上ないなと思う。
言いたいことっていうのが大抵その配信者が拾いそうな話題だったりするので、スルーされたらいい結果。読んだだろうけどどう思ったかは明かされない。自分が満足感を得ておしまい。配信のアーカイブが残ろうとも傷は浅い。
読まれて、思い通りの反応だった場合。傷はなくうれしく感じるものだが、自分を調子に乗せてしまうのでよろしくない。
読まれて、思い通りではない反応だった場合。これが最悪。場を濁すコメントをしたことを悔い、真意を釈明したくて「違うそうじゃない」と精彩を欠いたコメントをして傷をえぐる。
配信者本人はそんな些細なこと覚えていないだろうが、他の視聴者もそうとは限らない。少なくとも自分は配信者に読み上げられた他人のコメントを覚えている。
 
この失敗の原因はコメントを練ってしまうところにある。
配信を聞いている最中に言いたくなったことであれば、反射的で簡潔なコメントになり、話題からも浮くことはない。コメントとしてあるべき(と自分で思っている)姿を保てる。たとえ場を濁してしまっても、あちゃー程度で済む。
配信外で言いたいことができてしまった場合、それはそもそも配信に関係ないことなので言い出すこと自体ヤベー奴レッテルを貼られるリスクがあり、それをコメントできる機会まで時間が空いてしまうので、できるだけ簡潔かつ幼稚に、でも言いたいことが全部こめられるように、たった十数字をこねくりまわす。こねこねしているとその文章に意識がどんどん持っていかれ、ないがしろにできなくなる。ただの「言いたい!」が「(時間をかけて練った渾身の一文を)聞いてくれ!」に肥大する。後に引けなくなる。期待で肥大した言葉でなければ、場を濁したことや真意が伝わっていないことを必死でフォローしようとはしない。
長文のメールをしたためて送りつけるよりは害がないと思っているが、そもそもROMれないことが等しく害なのかもしれない。
それどうなの?と思うようなコメントもたくさん見かけるけど、他人を理由に自分の行いを正当化するのは違う。
 
こねてしまう弊害はこういう記事にだって言える。「書きたい!」と思った時のゴールがどんどんぶれていく。
衝動的に出る言葉が一番本質的で残しておくべきものなんだけど、自分の本質が浅いことをさらけ出す勇気がなくて、体裁を整えようとこねこねしているうちに内容も対象もよくわからないものになる。文章長すぎるのもそれが原因なんじゃないかと思う。のーみそこねこねこんぱいる(脊髄反射)
 
最近のメイン趣味が配信鑑賞になってしまって、最初はおとなしくROMって雰囲気を楽しんでたのに「このくらいなら自分もコメント打てるな…」って欲が出てきて、結果自滅的にそのコンテンツに嫌気がさしていく。
今日の自分はろくじゃないな、って思ったら即配信閉じてTSで観る。そしてコメントに打っていたかもしれないことをツイッターに書きなぐる。
そのくらいの自衛はできてるのに、言いたいことがひとつ溜まるだけでそれができなくなる。
我ながら自滅のプロだと思う。下手くそか?
 
 
ここまで書いていて、誰か特定の人に言いたいことがあるときはそれを伝えたときの反応が見たいっていう気持ちもセットになっていることがほとんどで、つまりその人とその言いたいことについて対話がしたいっていう欲求と大差ないじゃん、っていうことに気付いた。スルーも反応の一種だし。
その対象が配信者だったらまず対話なんて叶わないし、そりゃ拗らせて事故るよなあって思った。
昔それで大怪我したことあるのにまだ懲りてないっていう事実に今結構落胆してる。ふてぶてしい…。
こういうこと考えてるとほんとに自分のクローンがいればいいのになって思う。それで全部解決するのに。
 
 
ちいちゃい子がよく言う「ママみてー!ねえ!!みて!!!!」の精神が一向になくならない。
このブログだって、自分の脳みそを誰かに見てほしいっていう欲求が限界値に達した結果生まれたもので、それが続いてしまっている。こんなん書かなくて済むなら一番いい。
”小さな俺のさらに小さな醜い部分”の一部。一生おんぶしていくしかない。でもまだ自分にその覚悟がない。
他人の気持ちは読めないのでこわい。コミュニケーション怖い。正解がわからない。でも他人と接点がないと満たされない。
 
「ねえ聞いて~!!」って強引に耳を借りたわりに言いたいことがまとまってなくて、「なんか言いたい!」っていう気持ちだけが残ってしまって伝えたいことをねつ造しはじめる、ってところが保育園児時代から一向に成長していないので悲しい気持ちになった。ねつ造した部分も言いたかったことなのは間違いないんだけど、最初に言いたかったことと状況やパターンがずれていたりする。脱線の種になる。
本当に言いたいことがあったのか、貧相なボキャブラリーを披露したいだけなのか途中で見失わないようにしたい。
出来るかなあ。出来ねえだろうなあ…。